心の思い出


4月12日月曜日、私達は午前11時35分発のJL009便に乗るため、
朝8時にチェック・アウトを済ませ、冷たい風に吹かれながら、
「コンチネンタル・エアポート・エキスプレス」が着くのをホテルの前で待った。

オヘア空港のJALカウンター付近は、閑散としていて人影もまばら。
テロの影響で、空港ではかなり厳重な手荷物検査があり、
履いている靴までチェックされた。
テロ対策の為、搭乗口近くにあった土産物店の数も減らされたそうだ。

全てのチェックを終え、
私はJL009便が目の前に見える待合室で、
まぶしい朝の陽の光を浴びながら、青い空を見つめた。
・・・あと1時間で飛行機は出発する。
となりにいたカップルは、
「JAPAN」と書かれたガイドブックを仲睦まじそうに見ていた。

搭乗機の機体が地上からふわっと離れた時、
日本へ帰るのだという実感がやっと湧いてきた。
シカゴの街並みが眼下に広がり、そして徐々に小さくなっていく。

4日間という短い間に数々の素晴らしい出会いがあった。
夢のようなB.B.キングとの対面、そして菊田俊介さんとの再会。
初めてお会いしたグロリアさん家族やファインさんの顔も浮かんでくる。

飛行機が水平飛行を始め、ベルトサインが消灯。
これからが長い空の旅の始まりだ。
機内は空席が目立ち、自分の席を離れて、
空いている席で横になりながらゆっくりくつろいでいる人が何人もいた。
私はマクラに頭をつけたまま、ぼんやりとした気持ちで12時間を過ごす。

成田空港に到着したのは4月13日火曜日、現地時間午後1時50分。
B.B.キングに会うために計画したシカゴ旅行も無事終えることができ、
喜びと安堵感で胸が一杯となった。

現在、シカゴ旅行からすでに2ヶ月以上が経過したが、
目を閉じれば、いつでもあの時、あの場所に戻ることができる。
心に刻まれたハートフルな思い出が、今後、色褪せることは決してないだろう。

今回の旅の目的は、仕事でも観光でもなく、「人」に会うためだった。
BBだけではなく、思いがけないホットな出会いがいくつも私を待っていてくれた。
その上、菊田さんを初め、たくさんの方々から親切にしていただき、
皆様には本当に心から感謝している。

B.B.キングとの思い出。
彼の顔や雰囲気を思い起こしながら、
BBのサインが入った自叙伝を再び読み返してみた。
BBは本の中で、赤裸々に自分の心象風景を語り、
包み隠さず私達に告白してくれる。
そこには気取りやおごりなど一切なく、
鋭い感性が記憶した、ありのままの人生が綴ってある。

BBの心が、まるで自分の家族のように親近感をもって感じられた瞬間が多々あり、
彼の繊細な心の描写に何度も胸を打たれた。
どうして彼はここまで自分をさらけ出すことができるのだろうか?
私はずっと不思議に思っていた。
BBに会った後でも、明確な答えを見つけることができないでいた。

ある時、親しい音楽仲間にふとその理由を尋ねてみたら、
「ブルースはそこで勝負するんじゃないの?」
という答えがすぐ返ってきた。

・・・なるほど、そうかもしれない。
BBにとって、音楽も言葉も自然体で表現されるべきものなのだ。
自分が歩んできた人生が、そのまま文字になり、音になる。

BBは自分の生きざまや感情を正直に吐露することで、
自分は何を考え、自らの精神がどのように形成されたかを
音楽ファンに伝えたかったにちがいない。
BBの音楽は、彼の才能と体験、
そしてロマンチックでエモーショナルな彼のスピリットが作り上げたもの。
母への限りない愛や女性賛美、そして愛するミュージシャンの音楽も、
BBの音楽にはたくさん詰まっている。

BBは自叙伝の最後の章で、
以下のようなメッセージを我々に送ってくれた。
文章はところどころ私のほうで抜粋させてもらった。

彼は次世代を担う若者や全ての音楽ファンに熱く語りかける。
そしてこれからも、生ある限り、ルシールと共にブルースを歌い続けるのだ。
それはBBにとって生きている証でもあるのだから。

★私は、ブルースがミシシッピの田舎道を通って、それこそ地球上の
ありとあらゆる場所へ広がっていく過程をずっと見てきた。
今日、シドニーで演奏しても、あるいはオスロや大阪で演奏しても、
アーカンソーのオセオーラで演奏するのと同じ感覚を味わうことができる。
人々はブルースのグルーヴを感じてくれている。
つまりブルースは普遍的なものということだ。
ロッカーもラッパーも、ソウルを歌う若者たちも、
実はブルースという同じ源から出てきた。
ブルースは孫たちを見つめるおじいちゃんなのである。

エリック・クラプトンはブルースに身を捧げて、
自分の先人たちに対する敬意を払い続けることをやめない。
だからこそ、私は彼に敬意を払い続けている。
エリックはナンバー・ワン・ロック・ギタリストであると同時に、
誰よりも上手いブルース・ギタリストなのだ。
ボニー・レイットは白人女性だが、
彼女もまた、黒人ブルースを世に広めることにそのキャリアを捧げてくれた人物だ。

だが、そうした白人のプレイヤーたちの中でも異彩を放ち、
独自の立場にあったのがスティーヴィー・レイ・ヴォーンだ。
スティーヴィーが現れたのは80年代初頭。
彼は驚くべきテクニックとホンモノのソウルをもってプレイし、
そのおかげで彼の世代の中でも最も先端をいく
ギタリストと見なされるようになった。
エルヴィスのような潜在能力を持ったスーパースターだと言っていい。
エルヴィスがロックンロールでやったことを、
スティーヴィーはブルースでやってのけた、そう言ってもいいと思う。

スティーヴィーはまるで、息子が父親と話すように接してくれた。
私もちょうどマイク・ブルーム・フィールドを愛したように
スティーヴィーのことを愛した。
彼らは実際、私の息子同然だった。
彼らは私の技術を学んでくれただけでなく、それを基に、
もっといいものを作ってくれた。
ブルースを新しい世代へと伝えてくれた。
私一人ではとてもできないぐらい、ブルースの世界を広げてくれたのだ。

だから、1990年にスティーヴィーがヘリコプターの墜落事故で亡くなった時は
心底悲しかった。自分の一部を亡くしたも同然だった。
マイクもそうだ。二人とももっと長生きして、
実りの多い人生を送れたはずなのだ。

つい最近、そういう悲しみを少しはやわらげてくれるような出来事があった。
ポートランドの公演で、オープニング・アクトとして
ケニー・ウェイン・シェパードという若者が登場した。18歳だった。
彼はほんとうにブルースの弾ける若者で、私のショウが終わってから、
彼は自分がいかにスティーヴィー・レイが好きで、
どれほどアイドルにしていたかを話してくれた。
スティーヴィー・レイの遺産がティーン・エイジャーの中に
脈々と受け継がれていることを目の当たりにしたのは、うれしい出来事だった。
私にT−ボーンの遺産が血となって流れているのと同じことだ。
<B.B.キング>

<04・6・25>




JL009













B.B.King Blues Club & Grill in New York
(2003.8.10 友人が撮影したものです)